餃子と包子 7
市販の皮を使えば、作るのは簡単ですが、味は最も落ちます。
やはり、皮も自分でこねて作る方がよいわけで、慣れるとそんなに面倒なものではありません。
薄くすればよいというわけではなく、適度の厚みが要ります。
市販の皮は平均して薄すぎるようです。
ギョーザを売り物にしている店が各地にありますが、その実力判定の第一の基準を書いてみましょう。
まず市販の皮を使用している店はプロとしては失格です。
次には、はじめの注文で水鮫子(日本誰りでスイギョーザ)を注文してみることです。
市販の皮を使えば、作るのは簡単ですが、味は最も落ちます。
やはり、皮も自分でこねて作る方がよいわけで、慣れるとそんなに面倒なものではありません。
薄くすればよいというわけではなく、適度の厚みが要ります。
市販の皮は平均して薄すぎるようです。
ギョーザを売り物にしている店が各地にありますが、その実力判定の第一の基準を書いてみましょう。
まず市販の皮を使用している店はプロとしては失格です。
次には、はじめの注文で水鮫子(日本誰りでスイギョーザ)を注文してみることです。
その昔、中国の友人の家庭で鮫子とか包子を御馳走になることがたびたびありましたが、そこでは料理の際にカン水を使うことをしませんでした。
かなり名の知れた食品貿易商だった、その家の主人が旧いつも食べる家庭の食物に、私はカン水を使わないことにしている」と言ったことを、今でもおぼえています。
婦人雑誌や料理の教科書では、ギョーザの材料として、いろいろなものを規定していますが、これはあくまで参考程度に留めるべきで、もともと庶民の料理である鮫子類の中身は、作る人や季節によって自由に動きます。
最も基本となる豚肉と野菜の組み合わせを考えればよいわけです。
ギョーザの味を決める要素として皮の持つ意味も馬鹿になりません。
以前は滅多に起きなかった悲惨な犯罪が日常茶飯事になりました。
この数年だけを見ていても、犯罪の内容が変化しているような気がします。
ひとつの事件が解決する前に次の事件が起こり、悲惨な事件に対する感覚が麻痺してきています。
世界に目を向けてみても、どこかで変わらず戦争やテロが起こっているし、飢餓に苦しむ難民や子供たちは減りません。
次々と天変地異が起こり、人間を含めたあらゆる生態系が変化している・・・、「このままいけば地球は、日本はどうなってしまうのだろう?」とみんなが思っているけれど、どうすることもできない・・・。
昔は通用した「こうすれば幸せになれる」というマニュアルは崩れ始め、様々な価値観や成功論が生まれています。
「どうすれば幸せになれるのだろう」というような問いを、それぞれが心の中に持ちながら迷っている時代なのです。
このような背景があったからこそ、占いがブームになったのかもしれません。
占いを賢く活用したい方は、電話での占いはココからどうぞ。
あるデパートで「手作り」と称して売られていたギョーザは、既製品の皮を使っているにせの「手作り」でしたが、これを製造している会社は、皮のことをどう思っているのか、尋ねたい気がしました。
次にカン水の問題があります。
小麦粉をこねて麺や、鮫子、包子などの皮を作るのに、専門店では、手作りの場合でもカン水を入れることが多く、既製品では、製造や使用に便利なようにカン水を加えることが常識になっています。
カン水とは、元来、中国では天然のものが使用されていたそうですが、現在、日本で便用されているカン水は、炭酸ナトリウム(重曹ではない。いわゆる洗濯ソーダ)、炭酸カリウムのようなアルカリ性の強い化学物質に各種のリン酸塩を混合したものです。
天然のものでも合成のものでも、とりすぎれば健康に障害があることは当然考えられます。
はじめの頃、どこの専門店でも、皮は自分でこねてのばしていました。
しかし、今では、専門店はおろか、家庭でさえ、皮を手作りにすることはほとんどなくなりました。
機械で大量に生産される既製品の皮がここまで普及してきたということです。
従って、専門店でも、家庭でも、似たような鮫子しかできません。
もともと、鮫子とか包子というような食物は、個性が魅力ですから、最も個性の表れる皮の部分が個性を失っては魅力もまたなくなります。
魅力がなくなるだけでなく、鮫子でないギョーザが生まれてきます。
戦後、40~50年の間に恐ろしいほど、日本人の食生活に溶けこんだギョーザの味の秘密は、ギョーザそのものの持つ多種多様性、味の弾力性にあります。
日本では、満州から引き揚げた人を介して普及したために、鍋で焼くギョーザが一般的となりましたが、中国では水鮫子(ボイルしたもの)、蒸鮫子(蒸したもの)なども広く食べられます。
外省人(中国本土生まれの人)の店の多い台湾では、むしろ蒸鮫子の方が多く目につきます。
本場・中国での歴史的な変化のあとをたどることは、中国の食文化専門家にまかせるとして、鮫子が日本で普及しはじめた昭和30年頃から、現在までの変化を見ることにしましょう。
最大の変化は、皮の部分に起きています。
ギョーザとはあーまで中国語の読りと考えていたので、中国人の大学の先生から聞かれて面喰ったというわけです。
ギョーザのように、小麦粉または他の粉をこねた皮で、肉を主とした具を包むという料理は、ほとんど各民族が持っており、イタリーのラビオリとか、ロシアのペルメニ、コリドゥヌィ、ピロシキなどはその中でも有名です。
肉パイもまたこの仲間に加えることができます。
しかし、ボイルする、蒸す、鍋で焼くというような多種多様の料理法や、包みこむ具の変化という点では、中国の鮫子の右に出るものはないでしょう。
戦後、日本に伝えられた外国の料理の中で、ギョーザは最も広く普及したものの一つです。
ギョーザという言葉も日本語化してしまいました。
その昔、台北で台湾大学の先生と巷の店で蒸しギョーザを食べている時、「なぜ、これを日本語でギョーザというのですか」と質問されて面喰ったことがあります。
その時、つぎのように説明したことを憶えております。
ギョーザは元来、鮫子と書きますが、これはヂァオズと発音されます。
しかし、山東地方ではギァオズと詑り、山東からの移民が多い満州で、この料理にぶつかった日本人が、さらに日本語風にギョーザと詑ったものです。
神経系の中心的機能をもつ自律神経は、交感神経と副交感神経とで成り立っています。
私たちが異常な状況に追い込まれると、交感神経が活発に作用して、毛細血管の浸透性が増大し、血液量が極度に減少したりします。
ショッキングな事件にあって、急死したりする例は、こうした生理機能の働きによることが多いのです。
一方、副交感神経は交感神経の激昂を抑制する働きをもち、このバランスが人の心と体を支えているわけです。
ところで、祈りの心と行動は、この副交感神経の作用を活発にする役割をするのです。
祈りは適応不能の状況からぬけ出す精神的余裕を、私たちにもたらすというわけです。
古今東西、宗教の本質がこの祈りにあるとすれば、宗教とは人間の生理に基づいた現象ということになるのかもしれません。
お祈りで心が救われるのは何故なのでしょうか。
正月、節分、お盆といった日本の年中行事をふりかえると、私たちが先祖や仏様、神様に祈りをささげることの好きな民族であることがわかります。
日本人の宗教が根本的にご利益信仰だと指摘する藤井正雄氏(大正大学教授)は、この現象を一方的に否定してはいません。
肯定的側面もある、というのです。
"困ったときの神だのみ"の際、人は必ず祈ります。
「神様、助けてください!」「仏様、願いをかなえてください!」と祈る行為が、人間の神経的なバランスをうまく保つ働きをしている、と藤井氏は生理学者カノンの説を引きながら説明しています。